中島利行君を偲んで

本学に入学して数日後のことだった。夕闇迫る牧野の駅で、親しげに語りかけてきた一人の青年がいた。まだ少年の面影を残した風貌は、同級になったばかりの中島君だと気付いたが、なぜか永年の知己であるかの如く、車内での話は弾んだ。独特の人懐こい雰囲気で、彼は誰ともすぐに打ち解けて友人も多く、サッカー部の中心選手として、同期の青山康介君、西村満夫君らと共に活躍した。南河内の片田舎から出てきた私と違って、彼は大阪市の真ん中の西成区で育っただけに、都会の裏事情にも詳しく、市内の穴場にもあちこち案内して社会勉強?をさせてくれて、いつしか仲間うちで彼のことを「お師匠」と呼ぶようになった。そんな中島君だったが、抜け目なく勉強していたようで、学業成績は上位。特に補綴実習の作品は精巧かつ美的で、その腕を見込まれて補綴科に入局し、陶材を専攻して学位を取得した。口腔外科に入局した私とは毎日のように連れだって、夜に天王寺の小室先生の許で共に臨床の研修に励んだ日々。思えば、人生の中で最も充実した時であったかも知れない。

彼は、奈良の学園前で開業後も患者さんの信頼を集め、社保の審査委員などで会員の指導に尽力したものの、順風満帆の日は永く続かず、病を得て59歳で現役引退したことは無念なことだっただろう。共に登山もした。スキーもした。そんな若き日の体には二度と戻れず、やがて車椅子の生活となったが、学生時代から続いていた同期生7人のグループの家族ぐるみの集いには奥様の介助を得て欠かさず参加してくれた。ある日の集まりの時のことだった。歯科界にも弱りが出て、話せばつい愚痴が出る。「やってられん。もうやめてしまいたい。」という不満の声がお互いの口に出たその時、後ろの方から「そんなことで辞めてどうするんや!」という厳しい叱声が飛んだ。振り向けば、声の主は中島君だった。「俺の分も頑張って欲しいんや」そう訴える彼の目に涙を見て我に帰った。そして、その後10年以上も現役で働けたことは、中島君が後押ししてくれたお蔭と大変感謝している。彼の引退後は、阪大理学部の大学院生で将来を期待されたご長男が一念発起して阪大歯学部に編入して歯科医となり、中島歯科を継いだ。中島君は2015年夏から肺炎で体調を崩して、2016年1月7日、ご家族の暖かいまなざしに看取られて息を引き取り、同期生で実家がお寺の杉中功一君と三好慶信君が読経して彼を送った。そして、私達の7人グループは三好慶信君、淀泰尚君と私(野田)の3人のみとなった。「おお、よう来たな!」 仏壇の遺影は、そう語りかけているようで、あの世で再び酒を酌み交わす日も遠くないと思う。「お師匠さん! 天国の穴場捜し、よろしく頼んだで!」

(野田泉記)

全国寿歯会だより

本年秋10月14日(土)午後4時、大阪リーガロイヤルホテルにて、寿歯会卒後50周年の集いを、大阪寿歯会(代田会長)のお世話で開催いたします。
是非参加して、先に黄泉の世界へ旅立った友の冥福を祈念しながら「楽しい集い」を企画しておりますので、当日の再会を期待しております。

(幹事)