親友宮本哲博君

今年も春の選抜高校野球が終わった。昨年3月母校松山東高校の甲子園出場が決まり、球場まで応援に行くと周
辺の駐車場について何度も電話があった。幸い母校は一回戦突破し、試合後電話をした時歓喜で彼のテンションは最高潮だった。その前年12月初めに電話で、 臓がんや肝臓にも転移がある。「もう、あかんじゃろ」と言っ
てきた。愕然としながらも、そんなことは無い、今の医学を信じろ、と言うのが精一杯だった。その一週間後家内と松山へ彼を訪ねた。一緒に食事、道後温泉に入った。非常に元気で顔色も良く、ふっくらとして今までとなんら変わりはなかった。ただ、抗がん剤を注入するカテーテルが胸にあっただけである。その後、密接に連絡をとりあった。いつ連絡しでも張りのある声で元気のいい返事が返ってきた。本当にこの人は病気なのかと疑うよ
うな状況であった。
甲子園の半月前、互いに夫婦で有馬温泉に一泊した時も全く変わりはなかった。食欲も旺盛で、よく食べた。その時、彼に大丈夫との確信を持った。その確信が後で後悔することとなった。6月になって抗がん剤は止めた。自然に任せると言った。副作用で苦しかったんだろうと思う。漢方に活路を求め東京まで奥様と何度も通った。
それでも電話ではいつもと変わりなく元気だった。9月になってメールした時、「だんだんしんどくなってきた」と返事があった。彼に会いに行きたいと思ったが、絶対大丈夫との確信が強かった。また、そう信じていた。私の心のどこかに彼が弱っていたらどうしようという思いがあったことも事実である。11月3日計報を受けて呆然自失「そんなに早く」いったいどうなったのかと思うばかりだった。まだこの先十分頑張れると思っていたし、彼との時間の制限など考えもしなかった。
それから半年、彼への思いをやっと綴る気になった。宮本君との初対面に記憶はないが、2年生の頃気がついたら彼のそばに私がいた。歯科医師であったお父様を早くに亡くし苦学していた。毎日アルバイトをし、3年の時には親戚の歯科医院で手伝いをし、お母様を少しでも楽にしたいと言っていた。学生時代、春休み、夏休みなど故西村和晃くんと幾度となく松山へ行った。学生時代から大恋愛であった奥様の実家へもよくお世話になった。特に、奥様のお父上と大変気が合い、釣り船をチャーターして頂き、宮本君、西村君、お父上らとの松山沖での楽しかった魚釣りは懐かしい思い出だ。そんな訳で松山へと行くと大歓迎、味をしめていた。
卒業後すぐに開業せざるをえなかった彼には、歯科医師としての色々な試練があったことは想像に難くない。松山市歯科医師会会長、愛媛県歯科医師会副会長、大阪歯科大学同窓会副会長を務めた彼の人望は特筆すべきものがある。彼が逝った翌日松山へ会いに行った時、奥様から9月に車いすで東北旅行へ出かけたことをお聞きした。その頃には歩行も困難になっていたのか、岩手県久慈市ではここの病院で塩見の息子が研修しているんやと言ってましたと奥様がおっしゃられた。自身の人生を理解し、肉体的、精神的苦痛の中で私のことが脳裏にあったのかとの思い、彼との別れ、しばらく連絡がとだえていたことへの「すまない」という気持ちで込み上げるものを禁じ得なかった。私が何度会っても彼の運命を変えることは出来ないが、直接または電話でも千万無量の話が出来ていれば、その時だけでも彼の気持ちが和んだのではないかと後悔する。彼には、三人のご子息がいる。二人は歯科医師として、一人は医師としてそれぞれ社会に貢献している。以前、息子に関しては思い残すことはないと言っていたが、死にゆく人の遺憾千万は語れない。生者必滅、会者定離、愛別離苦を痛切に感じながらの日々親友宮本哲博君の冥福を祈る。
平成28年4月10日
(塩見 聰 記)