
彼の訃報を受け取ったのは令和6年12月の初頭の夕方、十二支会前会長の大頭さんよりの電話でした。「須磨の崎山くんがなくなられました」「もう一度言ってください!」難聴なので幾度も幾度も聞き直し、あと絶句しました。あの元気な永遠の美青年だった崎山先生が、、、、
彼は将棋が大好きで、私が故大西さん(D-と会=進学科のD組の会)と二人で将棋同好会から将棋部に昇格させたときに入部してもらいました。そして、卒業後口腔解剖学教室に残られ助手から講師として教鞭をとられました。ということで追悼文の表題を君ではなく先生とし、以下は進学かの時もD組で一緒に卒業して「D-と会」、「将棋部」でのおつきあいで崎山さんと呼ばせてください。
また、大学10回卒の故藤本先輩と私で作った「三十周年記念誌」に寄せられた原稿文が載っていたので紹介します。「小生が将棋部に入部したのが大学二年の時で33年前である。毎日、牧野の食堂で先輩や同僚が将棋を指すのを観戦した時誘われたのが動機である。今日のように娯楽施設がなく、暇があれば将棋を指していたものである。しかし、 時代の変遷とともに最近では部員の数も減少し、その結果、兼部の学生が多いため、このままでは廃部になるのではないかと危惧の念を抱く今日この頃である、、、略、、、」とあり将棋部に対する魂と愛とがうかがわれ、彼の予見通り数年後には部員がゼロとなり廃部となってしまった。
崎山さんは卒業後関西将棋連盟から二段の免状をもらっていると思います。
たまに数か月に一度「ご機嫌さん!」と電話があります。「元気にしているよ」で会話が始まる仲でした。
10年ぐらい前、長時間の手術を受けられ、車いすに身を置く将棋部の先輩が三木市の施設に入居していると聞き、D組の久保野君とお見舞いに行くことになり崎山さんを誘うと「よっしゃ行くで」と快諾してくれ、桜の散り始めた公園を先輩の車いすをおしてあげていた優しさあふれる崎山さんでした。先輩もすごくうれしそうでした。その時のことははっきり覚えています。
また、崎山さんは信頼されていたのか、ご自身の属する種々の会合の裏方さんや会計を任されていました。そして着々としっかりと役務をこなしていました。思い出は尽きませんが2年前に兵庫県十二支会が三宮の中華料理店「施家菜」で集まったとき、毎回出席の崎山さんの姿が見えないので大頭さんに聞いてみると腰の骨を骨折したため欠席という答えが返ってきました。
時間があったので帰りにご自宅にお見舞いに行こうとプラットホームに向かったが、よく考えてみると奥様も体調を崩されていたと聞いていたのでかえってご迷惑をかけると思いやめました。
こんなに突然の逝去なら、その時行った方が元気な姿が見られてよかったと今になり悔やまれます。
12月2日に家族葬が行われ、ご長男の崎山裕行君(よき後継者)が喪主を勤められたとか。心からご冥福をお祈りいたします。さよなら気の優しい崎山さん(合掌)
今老人ホームに転居している85歳
(長島興亜 記)