藤髙洋一君ご逝去(令和6年10月20日)

君に電話したのは「大15 いちご会」の1ヶ月ほど前だった「出席するならマンションまで送り迎えするよ」と。すると「そこまでせんでええよ、欠席するから。それより右近とここへ来いよ」との思いがけないことを、二度までも口にしたのだ。
あれほど好きだったクラス会に出ないというのは、動くのもおっくうになり、せめて右近文夫君や私に会おうとしたのであろうか……
実に多弁であった。入院中の奥様を遠路看病に通い続けたが、薬石功なく1年前に亡くなられたこと。その後ご夫妻で選んであったケア・マンションにひとりで移ることになった日々の生活。留守宅の心配。ご自慢のお子さん方のご長男は大学から企業へと一貫して理学研究に携わられ、ご長女は歯科医師として毎日の診療に精を出しておられること。夫々他県でお孫さんとご家庭をお持ちでありながら、何くれとなくお父さんに気遣いをされることなど、嬉しそうに語ったのであった。
学生時代から勤勉であり大学の講義には皆出席。補綴で歯学博士となり、大学や技工士学校の講師を務めた。釣りが趣味で食通。その上人との触れ合いが大好きで義理堅く、兵庫県いちご会の会長であり、歯科医師会、学会、研修会、旧友の冠婚葬祭など、どんな会合にも必ず顔を見せ、海外旅行もよく共にした。私の長男まで神戸遊学中にはお世話を受けた。
訃報を知ったのは、互いの旧友である上記の故 平井将嗣君宅のお悔み帰りの列車の中だった。エンディングノートに右近君と私の名が記されていると、ご息女からお聞きしたのも葬儀を済まされた後であった。余りに突然のことであり、直ぐに会いに行かなかったことは痛恨の極みであり、どうしようもない喪失感と自責の念にかられている。今はただご冥福をお祈りするばかりである。
旧友のご逝去
卒業して57年。残念ながら旧友が亡くなっていき、会うことはもう叶わない。この悲しみはどれほど旧友が大切であったかを教えてくれるものであり、自分と旧友とを確りと繋いでもくれる。
これからは今居る旧友をもっと大切にしよう。できる限り会話しようとしきりに思うのである。
(林 清重 記)