
小塚さんが亡くなった。その知らせは彼の携帯のSMSでした。奥様からのメッセージでしたが、驚きと言うより自分の目を疑いました。薬疹が出て体調を崩したのは聞いていたのですが、その後、身体の具合はどうなのか連絡しようと思っていた矢先だったので、まさか亡くなるなんて。彼とは多分ここ20年くらいは、会っていなかったと思いますが、最近はSMSで彼の油絵、水彩画をたくさん見せてもらって、その才能にいつも驚いていました。
学生時代は香里園の同じ山手町のアパートに住んでいて、歩いて5分くらいのところなので、よく行き来していました。特に冬の寒い日は、小塚さんの部屋は暖かかったので、上手を言って泊めてもらったりもしていました。
彼は美術部と将棋部に属しており、部屋には色んな絵画が何枚も飾ってあり、こたつの上には将棋盤と小さな果物がポツンと置かれ、昔のソノシートだったと思いますが、雑音だらけのクラッシック音楽をよく聞かせてもらいました。20歳前後の学生の部屋としては少し異次元で自分の趣味とは全く異なった空間でしたが、なぜか妙に落ち着いたのを覚えています。
僕たちはどちらかと言うと勉強よりも、まず1ヶ月間をどうやって食べていこうかと、いつもその話で持ちきりとなり、安くて大食い出来る店の情報を得て、少々遠かろうが関係なく、よく食べに行っていました。ある時、香里園の寿司屋さんで50皿完食すればただとの情報が入り、すかさず小塚さんと体育会の後輩2人がチャレンジした結果、3人で合計150皿のお寿司を平らげて、寿司屋の大将が商売にならないと怒ってきた事も今では懐かしい思い出です。
また忘れる事が出来ないのは、私どもの結婚式場を小塚さんに紹介してもらった事です。自分達はクリスチャンではありませんが、名古屋市のカトリック教会で式を挙げ、親戚から新郎新婦はさておいて、教会が素晴らしかったと情けない褒め方をしてもらったことが昨日のように思い出されます。
その後もいろんなかたちで、自分達夫婦は大変
お世話になりました。彼は一見、周囲の状況に左右されずマイペースに見えますが、実は物事の動向をしっかり見きわめており大変繊細で、しかも根気と忍耐強さを併せ持っています。これは彼の描いた絵を観てもらえば納得いくのではないかと思います。何よりも、小塚さんは患者さんに対して上から目線では接しないし、他人の悪口は決して言わない人でした。
最後になりますが、小塚さんは、年齢は自分より一つ上ですけれども、普段の呼び方は、「こったん」と呼んでいました。「こったん」は倒れるまでは、まだまだ仕事に励んでおり、これから新しいジャンルの絵を描きたいと聞いていたところなので残念でなりません。「こったん」が亡くなって、これで、学生の時に講義室の後ろで駄弁っていたメンバーが皆いなくなってしまい、寂しさがよけいに募りますが、自分も古希を迎え、そう遠くない将来にどこかで違った形でまた逢うのではなかろうかと思っております。その時は講義室の後ろのメンバー上田うーちゃん、大橋、俊太郎達も交えて、心ゆくまで楽しい酒を飲みましょう。ではその時までさようなら。
合掌
(宮澤彰敏 記)