大学を卒業して知らぬ間に35年以上経ってしまった。
歯科大学に入って以降現在まで、ただただ今日の目の前のことを目一杯こなして行く日々。それの積み重ねで気がつけば今日だったみたいな。私は将来のこととか未来予想図的なことを考えるのは昔から好きじゃないし、今も変わらない。先のことも過去のこともあまり考えない、それを35年以上やってきた。
そんな私だから、大学の同級生の皆さんとのつながりも極めて薄い。一部の方を除いて、卒業以降ほとんど付き合いがないまま時が過ぎてしまった。だから同級生がどこで何をして、どんな感じで歯科医療をしているのか?ほとんどわからない。
卒業して何回か同窓会があって一応出席はしたものの、誰と何を話していいのか?わからない状態だったので、あまり会話を交わすこともなかった。だからせめて自分のことを語ろうと思う。
解剖・模型実習は初体験の連続で楽しかったし、病院実習も患者さんと話すのが大好きだった。病院実習中も従姉の友人の歯科医院に出入りさせてもらい開業歯科医院とはどんなものか?勉強させてもらった。しかし病院実習を終える頃、いろいろあって全然勉強しなくなった。そのせいか?大学院に進むこともままならず、気が付けば大学を卒業していた。
大学に籍を置きつつも、とりあえず知り合いの歯科医院を転々とした後、ろくに知識も持たないまま開業。最初はあまり患者が来なかったけど、何故か周囲の歯科医院が立て続けに休廃業をしたおかげで、最低限の収入は確保できるようになった。
その頃結婚したが、長女が今で言うところの医療的ケア児。当時の医療水準では生命を保つことができなかった。そこで小児科のNICUの存在を初めて知った。それから程なく京都歯科サービスセンターの所員にと声がかかり、そこで障害者歯科と出会った。障害児者の歯科医療と死んだ娘の受けた医療が一つにつながった。同じ頃、先輩から摂食嚥下の勉強をしないか?と誘われ、京都第一赤十字病院神経内科に勉強に行かせてもらう機会を得た。介護保険前夜だったが介護が必要な患者の歯科医療の重要性を知ることとなった。
医院の患者も増えて、さあ、頑張るぞ!と気合いを入れたところで厄年。父親が巨額の負債を背負ったまま死去。父親の保証人になっていたせいで、ここから数年は「オレの歯科医院が人手に渡っていくんだなぁ」と、診療も心ここにあらずのまま弁護士事務所や裁判所通いの日々。さらに時を同じくして母親が死去。父親の債務処理と同時進行で両親のゴミ屋敷の整理をする日々となる。
厄年過ぎてようやく無事に歯科医業に専念することができ、縁あって関わりはじめた障害者歯科と摂食嚥下障害について本格的に勉強を始めることができるようになったのが2007年頃だと思う。ここからは再び目の前の仕事を淡々とこなす日々を続けられるようになり、ここ10年は医療的ケア児にも関わるようになり、現在に至る。
正直あと何年仕事ができるか?わからない。少なくても持続可能な歯科医院経営なんか頭に全くない。先のことは知らない。
という訳で自分語りをしてしまったが、同級生の皆さんは卒後どんな人生を歩まれているのだろうか?たまには自分を振り返るのも悪くないかもしれない。
(宅間 巌 記)